高校の研修旅行の時、初めて足を踏み入れた広島の平和記念公園で、碑巡りのガイドの方が一番最初に教えてくれたエピソードをよく覚えています。その方が以前別のグループを案内した際に「この公園に原爆が落ちなくてよかったですね」と言われたことがある、というお話でした。
”平和記念公園のある場所は爆心地のすぐ近くで、当時ほとんどの建物が壊れて多くの方が亡くなったところで、戦後その場所に作られたのがこの公園だ”というくらいのことを知っていた私は、「なんでそんなことを言うんだろう」と思ったのが、正直な感想でした。
しかし実際、平和記念公園のある場所には人々の生活があったのだということを実感できていなかったのは、私も同じでした。
以前ひろしまを考える旅で、「平和公園に行くだけでは、そこに生活があったことは見えない」というお話を伺ったことがあります。そこまでの想像力を持てていなかった自分に気づかされました。
(私の当時のメモ)
そこにあった生活を、たくさんの「物」が、教えてくれています。
例えば、国立広島原爆死没者追悼平和祈念館には地層の断面標本が飾られていましたが、平和記念公園造成の際に重ねた土の下に、がれきの層があるのがわかりました。
(写真 国立広島原爆死没者追悼平和祈念館HP)
また、例えば平和記念資料館の工事が行われていた2015年から2017年の間には本館の下の発掘調査が行わていて、牛乳瓶、ビール瓶、碁石、万年筆、飾りタイル、ビー玉などが見つかったそうです。
また、当時の「写真や映像」は、とてもリアルに、そこで生きていた人々の生活、それが奪われた惨状を教えてくれます。
先日、中國新聞のHPで、ある映像を観ました。そこには原爆投下前の街の映像が含まれていて、平和記念公園の場所にあった住宅やお店、人々が往来して活気にあふれる街の様子が映されていました。
また、原爆投下直後に撮影された写真についても説明されていて、写真を撮った記者の一人、松重美人さんが紹介されていました。平和記念資料館でもその写真を見ることができますが、その写真には「やっとの思いで、一枚目のシャッターを切った。」という言葉が添えられています。私はこれを見たとき、写真が残されているという事実にも、葛藤しながらも残そうとした方の想いにも、衝撃を受けました。
他にも、東京大学の庭田杏珠さんと渡邉英徳教授が取り組む「記憶の解凍プロジェクト」では、AI技術と資料・証言をもとに当時の写真をカラー化するということをしているそうです。モノクロ写真だと、どうしても昔のこと・いまの自分の生きている世界とはどこか違う出来事、という印象を持ってしまいますが、カラー化された戦前・戦後の写真を見ると、ハッとさせられる事があります。
(本の表紙 Utokyo Biblio Plazaから)
文章や資料で勉強していると、その被害の規模や実態、被爆前後の街の雰囲気を知ることはできないことを痛感します。
伝えようとする人々の努力と技術の助けを借りながら、想像力を持って、今は見えなくなっている当時の人々の生活・そこで起こった出来事を丁寧に学んでいきたいなと思いました。
平和・核委員会 ちろる
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