街角にある被ばく者のあの日の記憶 被爆者が描いた原爆の絵を街角に返す会
「ひろしまを考える旅」のフィールドワークの1つ「韓国・朝鮮人被爆者の歩みコース」のために、その歩みを支えてこられた広島キリスト教社会館を訪ねる道すがら、福島生協病院の東側の壁に沿って、被爆者が描いた原爆の絵を街角に返す会の7号碑「金崎是 原爆絵碑 記憶 あの日、この地で―」はあります。
作者の金崎是さんは戦前、画壇でも絵を出展するほどでしたが、原爆の惨状の中で
「のんびり絵なんぞ描いてはおれないと思い知らされた。原爆があったんじゃ、人類が絶滅してしまう。本当にそう思うた。」
との思いの中で、戦後10年以上も何も施策を出さない政府に対して被爆者運動、核兵器廃絶運動をし、被爆と貧困と差別にあえぐ人々と部落解放運動に邁進されました。
「被爆者の中には、部落差別と貧困にさらされ三重苦の人もいた。生きていて良かったと思えるようにしなければと、地元で被爆者の会づくりを始めた。仲間と一緒に、毎晩のように被爆者の家を一軒ずつ回った。」
「国は昔からずっと、被爆者に冷淡だった。今も変わらん。被爆者が生きていて良かったと本当に思えるんだろうか。そう思って亡くなっているのか。怒りがおさまらん。」
そう語る金崎さんの絵は、怒りと哀しみとやるせなさに満ちています。
7号碑の土台は被爆した岩で、天満神社と宇品駅のプラットフォームにあったものです。絵と共にあの日のことを伝えています。
広島の街には他にもたくさんの絵碑があり、またたくさんの慰霊碑があります。少しだけ注意を向けて、さまざまな形で伝えてくれている「あの日」に想いを馳せ、わたしたちも伝えるものになっていきたいと願います。
*福島生協病院
広島市西区福島町1丁目24番7号
*金崎是さんの言葉は全て以下の記事より引用
2001被爆者の伝言 金崎是さん (上) 見えるうちに惨状描きたかった
中国新聞 2001被爆者の伝言 金崎是さん (下) 冷酷な国、怒りおさまらん
*被爆者が描いた原爆の絵を街角に返す会 絵碑のある場所
1号碑・西応寺、2号碑・広陵学園、3号碑・広島YMCA、4号碑・ルーテル広島教会、4号碑拡大頁、05号碑広島女学院、6号碑天満小学校、7号碑・福島生協病院、8号碑・エソール広島、9号碑・赤十字原爆病院、10号碑・広島共立病院
臼井一美
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